西岸寺の歴史

炭鉱の町の人々の拠り所の役割を果たしていた、西岸寺

福岡県のほぼ中央部に位置する田川市で、昭和初期に真宗大谷派(東本願寺)のお寺として活動を始めた西岸寺。田川市は近代日本のエネルギー産業を担った石炭の町であり、西岸寺の歩みは炭鉱の盛衰とともにありました。故郷を離れ、命がけの炭鉱労働に従事する地域の人々にとって、心の拠り所として重要な役目を果たしてきた西岸寺。昭和40年代に炭鉱が閉山した後も、人が集う場として地域の人々に愛されてきました。

西岸寺の取り組み

人と人を繋ぐハブであるお寺の役割を、現代に合った形で取り戻す

他の地域に比べ、炭鉱閉山による人口減少を早い時期に経験し、少子高齢化が進む田川市ですが、元々、地域の人々の繋がりが強い地域でした。現在、4代目住職を務める中西 無量(むりょう)住職は、かつての地域の結びつきを現代に合わせた形で取り戻したいと考えています。西岸寺に帰坊する前には、真宗大谷派の職員として勤務する中で、「未来の住職塾」に参加。地方にある寺院が活性化するためには、お寺を取り巻く環境・地域との関係性を客観的に見つめ、人々の「声」を丁寧に拾っていく大切さを実感した経験があります。そのような視点を取り入れ、人と人を繋ぐ「ハブ」としてのあり方を模索しています。

住職の想い

住職の中西 無量さんにお話をお聞きしました。

住職インタビュー:中西無量住職

地域の結びつきの中心であった、西岸寺

──西岸寺の歴史について教えてください。

大正から昭和の初頭に、現在とは違う土地で「説教所(大きなお寺の支院)」として歩みを始めており、簡易的な法要や、地域の人々の集会所としての役割を担っていたと聞いております。そして、一寺院として現在の地に建立されたのは、昭和の初期。お寺が所在する田川市は、炭鉱の町として栄えた歴史があり、その歴史と共に西岸寺があったともいえます。炭鉱の仕事は命懸けですから、他の地域として比べ、安全祈願や、亡くなった方への供養をするという意識がとても強い地域だと感じています。その分、お寺が果たす役割への期待値やニーズも高かったといえるでしょう。明治時代には三井田川炭鉱が採掘を始め、戦中から戦後にかけて最盛期を迎え、昭和40年代に炭鉱は閉山。そんな炭鉱の盛衰の中で、西岸寺は地域の公民館的な存在でした。習い事の場として書道教室や、そろばん教室が開かれるなど、地域の人々が気軽に集まる場所だったのです。象徴的なのは、お盆です。西岸寺が所在する地区の初盆供養(合同慰霊祭)は、歴代住職が法要を執り行い、法要後には「盆踊り」が催されていました。そこには、帰省した方たちも参加することもあり、とても賑やかでした。寺とは別に地区の公民館が建てられた後も、8月14日に地区の初盆供養と盆踊りが公民館で、15日には西岸寺でお盆法要と盆踊りが必ずセットで催されてきました(現在はコロナ禍などの影響で休止中)。幼少の頃見ていた光景は、先々代にあたる祖父が地域の方々に愛され、信用を集めていた姿そのものです。私もいつかこんな住職になりたい、「なれるのかな」と不安に思うほど尊敬をしていました。

住職インタビュー:2

人の温かみを身近に感じる、田川市の雰囲気

──現在の地域はどのような様子でしょうか。

私には、門徒さんをはじめとした田川の地域の方々に育ててもらった温かい記憶があります。当時から、何か困ったことがあると、地域のみんなで分かち合うような雰囲気がありました。そのため、先代の父が亡くなり、この地に戻ってくることを決めた時は、この地域のために何かできないかと強く思いました。昭和30年に10万人を超えてピークだった田川市の人口は、炭鉱が閉山を迎える昭和40年代に向けてどんどん下がっていき、他の地方同様、少子高齢化が進んでいます。このように人口がピークを迎え、減少していくタイミングが他の地域より早かったこともあり、地域創生のモデル地域として他の行政や研究機関などからの視察が多くあります。最近ですとPodcast番組「COTEN RADIO(コテンラジオ)」が、「いいかねPalette」(小学校の廃校を活用した地域創生施設)で誕生したこともあり、全国の方に知っていただく機会も増えてきました。経済合理性の観点だけで見ると、人口減少の町は、どうしても価値が低いように感じてしまうのですが、今は時代が変わってきていると思います。特に、50歳の私より若い世代で、利便性よりも人の温かみや触れ合いを求めている人たちが増えていると感じています。「田川って温かみを感じる町だよね」という雰囲気が伝わるような活動を創造したいと思っています。

住職インタビュー:3

人と人を繋げる寺の機能の回復を目指して

──具体的に現在、どのようなことを取り組まれておりますか。

私はこの地域のことを考えた時、お寺としては終活支援、グリーフサポートを基軸にしたいと考えています。それが、人と人との結びつきが温かい田川市の雰囲気にも合うのではないかと思うのです。そして、人と人を繋ぐハブとしてのお寺の役割を、もっと回復していきたいと思います。ここ田川の地域は高齢者が多く、一人暮らし、もしくは二人暮らしの世帯がとても多いです。何か困ったことがあっても、自治体の福祉サービスをはじめ、公の支援などに繋がれていない方がいらっしゃる現状があります。そこで、お寺という箱がハブとなり、困りごとを抱えた一人一人に、必要な専門知識や技能を持った人やサービスとつなげて解決へ導いていきたい。私自身は、そのつなぎ役であり、1つのピースでありたいと考えています。最近、具体的に話が始まっていることが、町の保健室的な場所として寺を開放するということ。医療機関の協力を得て、医師もしくは保健師といった方にお寺に来ていただき、気軽に健康相談ができる場所を設けるということです。そんな活動を行なっていたところ、地域おこし協力隊に就任したことがきっかけで田川市にUターンし、後に門徒となっていただいた方が、地域の様々な人やグループを紹介してくださるご縁をいただくようになりました。そのおかげで、専門家をはじめとする様々な方たちとの繋がりがどんどん生まれています。このような活動をしていれば、例えば、親御さんと離れて暮らしているお子さんが、西岸寺に事前に親御さんの健康や終活のことを相談してきてくださるなどの作用が生まれると思うのです。

住職インタビュー:4

「弔い」に向き合い続けていく気持ちを大切に

──樹木葬を考えている方へのメッセージをお願いします。

現在、西岸寺には2棟の納骨堂(3種類の納骨壇)、および合葬墓「光の墓」があります。樹木葬に関しては、個別墓所の建立に向けてデザインの相談を始めています。西岸寺では、将来的なことを考えた時にも、すべての方に安心して供養を任せていただける仕組みをつくっております。大切なことは、ご家族が安心して弔いの時間を過ごせることです。そのために私は最善を尽くします。そして、弔いの主人公は、あくまでも「故人(あの人)」を想い、手を合わせるご家族だということが大切です。ご家族の故人への思いを汲み取り、しっかり「故人(あの人)」に向き合えるよう促す。このことは、私が普段から大切にしていることなので、樹木葬でご縁を結ぶ方であっても丁寧にサポートさせていただきたいと考えています。仏教には「愛別離苦(あいべつりく)」という言葉があります。死別によって生じる悲しみ・苦しみのことです。私たちは大切な人であっても、必ず別れの時が来てしまいます。そのとき、「今、あなたが感じている愛別離苦・悲しみは、その大切な方が貴方へ生前大きなものを与えてくれていたことの“あかし”なのです。だから忌み嫌わず大切に胸に置き続けてほしい」と。私は弔いの際には必ず、ご家族に対してこのようにお話するようにしています。困ったことを一緒に分かち合うということを、これからも続けていくお寺でありたいと思っています。ぜひ、お気軽にご相談いただければと考えております。

住職インタビュー:西岸寺境内

中西住職、お話ありがとうございました。

交通案内

西岸寺 納骨堂むりょう

〒826-0042 福岡県田川市川宮1513-7

電車でお越しの方
  • JR日田彦山線「田川後藤寺」駅から車で5分
バスでお越しの方
  • 田川市コミュニティバス・弓削田・金川・上伊田線「西岸寺前」から徒歩3分
お車でお越しの方
  • 駐車場完備
  • 九州自動車道「小倉南」インターから40分
  • 【カーナビご利用の方】「西岸寺」または電話番号「0947-42-2769」で検索してください。

西岸寺の納骨堂

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